= フロー・エッセンス+
(プラス)誕生の経緯 =

                                               「
からだの再教育文庫」より


1、オジブア族の薬草療法

世界におけるハーブの大発見というのは、オンタリオ州ハーレイバソーという町でおこったといえるであろう。

1922年のある晩、病院で婦長リーン・ケイスが巡回していると、彼女はお風呂に入れられている老衰状態にある婦人患者を見た。

リーンはその老婆の胸のあたりにある見たことのないマークに気づきそれはいったい何なのかと尋ねると、老婆はリーンに次のような話を始めた。

1890年代の初め、その老婆はイギリスからオンタリオ州北部の町に採鉱夫の夫とやってきた。

ある日、彼女は胸にしこりがあるのに気づき、それを夫に話すと彼はその地方に住む友人であるオジブア族のメディスンマンにどうすれば治るかと相談してみた。

メディスンマンはインディアンたちが先祖代々伝えられて来た「身体を浄化し、大自然の精霊と人体の調和を取り戻す神聖な飲み物」である薬草茶の飲用を指示して、その薬草の採取と調合の方法まで教えてくれたというのである。

採鉱夫の夫も妻もそのメディスンマンのいう煎じ薬に半信半疑だったため、胸にあるしこりがいったい何なのか、その問題を解明するためにトロントにある総合病院まで行くことに決めた。
                                              
2、数ヵ月後に大きな変化

病院で診てもらうと、彼らの不安は的中した。

心配していた通り、彼女は重い病気に冒されているとのことだった。唯一の治療は、手術によってそのしこりを取り除くことだ。

1892年 その当時の状況を頭に浮かべてもらいたい。その当時は、化学療法や放射線治療といったものがない時代である!!

採鉱夫とその妻には、同じ病気にかかった友人がいた。その友人は外科手術を試みたものの今はもうこの世にはいない。インディアンの治療法より外科手術に対し疑い深くなった彼らは、オンタリオに戻り、妻はメディスンマンの勧める混合飲料を試してみることにした。

すると、2ヶ月のうちに彼女の体に変化がみられ、煎じ薬を毎日飲むことによって1年後には病気の気配もなければ、再発することもなかった。


3、ハーブを採集


リーンは老婆が話したそのインディアンの治療法にひきつけられた。

老婆はハーブの名前をリーンに話し、リーンは1枚の紙に、そのリストを書きとめ、ポケットにしまいこんだ。

しかし、彼女は自分の叔母が胃の大部分に腫瘍ができていると診断される2年後まで、そのお茶のことはすっかり忘れていた。

叔母の腫瘍は肝臓まで冒されており、専門医は叔母を見放してしまった。

そこで、リーンと叔母の内科医アーノルド・フィッシャーはその煎じ薬を試してみることにした。リーンは自然のままのハーブを集め、お茶を煎じて叔母に与えた。約2カ月後、叔母の体に変化が起こり、1年後にはすっかり体のどの部分にも腫瘍が消えてしまったことが証明された。叔母はその後20年間生き続けた。


4、無償の奉仕

このことがあってから、リーンとフィッシャー医師は研究員がするように、最善の研究に取り組んだ。まず、彼らはハーブの数と調合の種類を変え注射による実験を試みた。

数十年後、その混合物は多くの人々の間で話題となり、多くの末期患者がリーンのクリニックへ救いを求めて移送されてきた。なかには、生き長らえることができなかった患者もいたが、しかし大半の患者は医者に末期症状だと診断されながらもリーンの治療によって15〜20年も生き延びることができたのだった。

写真最初の数年間は、その治療をエイジアック(リーンの姓である「CAISSE」を逆さにして「ESSIAC」と名づけた治療として行っていたが、医療当局から注意を促されてきた。

2回程、リーンは医師免許なしで開業しているといった理由で逮捕されそうになった。

しかし、逮捕令状を持った調査医たちは、彼女が今まで従事してきたことに対し奉仕料を一度も請求しなかったことが判明したとき、調査医たちは令状をつきつけることをしないで去っていった。

リーンはまたシカゴにあるパッサヴァント病院へ出向き、そこで彼女は30人もの末期症状にある患者を治療し、助けた。

彼女の行ってきたことを監視していたドクターたちはリーンの治療法を「より長く生きられ、痛みを感じずそして大半の腫瘍を取り除く治療だ」と評価した。



5、治療法、広がる

やがて病院を退職したリーンは、トロント市内に借りたアパートで治療に専念することになったが、毎日数十人の患者の列ができ車の数も増えて近隣からの苦情が相次いだ。しかし、報酬を求めず、患者のささやかな寄付に頼るだけの彼女に、それ以上の家賃の支払いは不可能だったので、郊外の小さな一軒家に移り住むしかなかった。

そこでも「不正医療行為」の罪で逮捕されかかるという不愉快な事件があった。まわりの医師や患者たちの援護のもとに当時の厚生省と直談判し、治療の継続を認めさせることはできたが、それには「治療代を請求しない」「確かに癌であるという医師の診断書を持った患者に限る」といった条件がつけられていたのである。


6、クリニックに患者の列

1932年にはトロント・スター紙に「ブレースリッジの若い女性、注目すべき癌の治療法を発見」という大見出しで紹介され、彼女の治療法はいよいよ広く知れ渡り、助けを求める患者は増加する一方だった。また大金を積んでその処方を買い取ろうとしたり、共同事業を申し入れてきたりする人間も少なくなかったが、リーンはどんな儲け話にも一切関心を示さなかった。

1934年、自分の患者の末期的腸癌がエイジアック療法で完治したのを見た1人の医師が、町議会に熱心に働きかけた結果、税金の滞納で町に差し押さえられていたホテルがリーンに提供され、リーンのためのクリニックが開設された。たちまち盛況を極めたクリニックは、まるで巡礼者が溢れるルルドの聖堂のようだった。このクリニックの治療でエイジアックへの信頼と期待はいよいよ高まり、厚生省にリーンの活動の支援を要求する請願書には数千人の署名が集まった。


7、クリニック、閉鎖へ

にもかかわらず、リーンの事業は1942年に政府から正式に中止するよう要請された。議会ではリーンの治療法をめぐって壮絶な論戦が展開され、傍聴席の圧倒的な応援にもかかわらずリーン法案は僅差で否決された上、リーンのクリニックは閉鎖に追い込まれてしまったのである。リーンの治療を監視してきた調査委員会は詳しい成分を明白にしないかぎり許可しようとしなかったのだ。

リーンは、その成分を詳しく打ち明けても、彼女の治療法を変えられるか、もしくは、かき消されてしまうのではないかといった心配があった。彼女は煎じ薬の成分についての内容を明かさなかったため、それゆえ人々を治療することはもうできなくなってしまった。



8、薬草茶の調合法を完成

1958年リーンはマサチューセッツ州ケンブリッジ大学のチャールズ・ブラッシュ博士と共同事業を取り組んだ。彼はかつてジョン・F・ケネディ元大統領の主治医であった。また彼は精神医学、産科・内科・外科医学の博士の分野でも非常に尊敬され、有名な人物であった。彼は他の治療方法にも目を向ける人物として知られ、また自分の病院でもそれらの治療法を用いることがあった。博士とたちまち意気投合したリーンは、その招待を喜んで受け入れ、ケンブリッジに移ってブラッシュ・クリニックで臨床活動を開始した。エイジアックがブラッシュ博士の期待に応える効果を現し始めるのに、3ヶ月もかからなかった。

リーンとブラッシュ氏が共同事業を取り組んだ時、1922年に老婆から聞いた8種類ハーブのオリジナルレシピに最も近い調合法を完成させた。二人はその調合法に従い、8種類のハーブが最大限の相乗効果を及ぼす煎じ茶作りに従事した。そして元来インディアンたちが用いてきたように飲む煎じ茶として完成させたのだ。



〜以下、「フローエッセンスプラス」として誕生するまでもっと続くのですけど、省略します。フーッ・・・